top of page

コダーイのことば

良い音楽家とは

良く訓練された耳

良く訓練された知性

良く訓練された心

​良く訓練された手

コダーイ・ゾルターン
kodály zoltán
(1882ー1967)

4つは全部一緒に、いつも均衡をもって育てなければならない。1つが遅れても 進みすぎててもよくない。

 今では第4の項目だけを見て、あとの項目を放ってしまった。しかし、他の3つの訓練のペースをあわせたら、もっと敏速に、容易に成果をあげていたであろう。​(コダーイ・ゾルターン 1953年 音楽院における学期末修了式での講演)

「子どもの音楽教育はいくつから始めるべきか」と尋ねられた時、「生まれる9か月まえから」と答えた。

 母親は、自分の体を子どもに与えるだけでなく、彼女自身から子どもの魂もつくる。

 これを誇張と思う人たちでも、第一印象というものが一番のこるものであることを認めるはずである。

 子どもが最初の6年間で聞いたものは、あとになって消すことができない。(1951年 子どもの日に寄せた演説)

 子どもほど、最も純粋な芸術作品の、柔軟で本能的に正しい理解者はいないのである。全ての偉大な芸術家の中には、子どもが失われずに生きている。だから、子どもは、最高の芸術作品の中に精神的親近性を感じとる。したがって、真実は逆である。

 真の芸術的価値だけが、子どもに与えるに適している。(1948年 ペーチ市での講演)

 子どもの遊戯うたほど、民族音楽の原始時代に深い光を当ててくれるものはない。

 ちょうど子どもが、その発達の諸段階の中で、人類が今までにたどってきた発展を短く急いで繰り返すように、子ども達の示す音楽的諸形態の細かい観察は、私たちにとって生きた音楽史だともいえる。遊戯歌の中には、民族固有の諸現象が、みんな民族音楽の他の分やにおいてよりも明瞭なかたちで現れている。

 新しいものが生まれ、古いものが死んでゆく。---そこで、ほんとうに残るべきものだけが残り、ほんとうに新生してゆく。これこそ、生の営みそのものである。(「ハンガリー民謡大観」第一巻 『遊戯うた』序文1951年)

 トスカニーニが、練習中に最も多く口にしたことばは、カンタ―レ!(うたえ!)であった。

 千の色合いと、意味を持って。 (「ハンガリーの音楽教育」の序文より)

 自分のためにうたうのなら価値はない。2人でいっしょにうたうなら、より素晴らしい。それから、われわれすべてが1つになるようなハーモニーが響くまで、もっと大勢の人たち ---- 100人、1000人と一緒にうたうなら、そのとき

全世界に喜びあれ、とほんとに言うことができる。(1946年『ロシア、ハンガリー音楽における民謡の役割』)

全人類の永遠の調和を反映し、またそのこととどう適合することができるかを示すこと以外に、音楽の使命はほかに何があろうか。 (1952年 平和会議への寄稿)

真の芸術は人類の進歩にとって最も強力なものの1つである。そしてそれをすべての人々に受け入れるようにする人が、人間性につくす人である。

 もちろん、完全な音楽家はありえない。どんな最良の人でも欠点はあるものだ。しかしゴールを目指して、そこまでの距離をはかり、そこに到達するには、どうしたら良いかを判断することはできる。

 そういう人たちのためにシューマンの最後の文章は励ましのことばを残している。「学ぶことに終わりはない」(1953年 音楽院における学期末修了式での講演)

『コダーイ・ゾルターンの教育思想と実践 ---- 生きた音楽の共有をめざして』 中川弘一郎​ 編・訳より抜粋 させていただきました。

bottom of page